🕯️はじめに
仕事をするときも、あの塚に背を向けてはいけない。東京の大手町には、オフィスの机の向きにまで及ぶ、そんな噂があります。
塚を崩して庁舎を建てれば、関係者が相次いで亡くなる。戦後、駐車場にしようとした重機も倒れる。日本の経済を動かすビル街に、なぜこれほど強い祟りの話が残っているのでしょうか。
その場所が、平将門の首塚として知られる「将門塚」です。石碑の前には花が供えられ、その足元には小さなカエルたち。夜の写真にも、恐ろしい名前だけでは語りきれない、お参りの場の姿が写っています。
🗺️平将門の首塚(将門塚)の基本情報
名称:将門塚(まさかどづか)
通称:平将門の首塚・将門の首塚
所在地:東京都千代田区大手町1-2-1
アクセス:地下鉄「大手町駅」C5出口からすぐ
文化財:東京都指定旧跡
保存・管理:史蹟将門塚保存会
皇居の東側、大手町のオフィス街の一角にあります。千代田区観光協会の案内でも、最寄りの出口はC5とされています。神田明神ゆかりの旧地で、毎年9月の彼岸には慰霊祭が営まれています。
👻将門塚にまつわる祟り・心霊現象の噂
- 京都にさらされた将門の首が目を開き、東国へ飛んで帰ったという。
- 塚が荒れると疫病が広がり、供養すると鎮まったと伝わる。
- 震災後に塚を崩して仮庁舎を建てると、大蔵省の大臣や関係者に死や病気が相次いだという。
- 没後千年にあたる1940年にも、落雷による火災で大蔵省が焼けたと語られる。
- 戦後の駐車場工事では、ブルドーザーが転倒し、運転手が亡くなったという。
- 近隣のオフィスでは、塚に背や尻を向けると災いが起きるといわれる。
- 参拝や撮影の後に、カメラや記録媒体に異変が起きたという体験談がある。
- 芸人が石碑を蹴った後、仕事がなくなったという話も有名。
- 現地には一人しかいないのに、地図アプリには「混んでいます」と表示されたという投稿がある。
目を開く生首が、京都から東へ飛んだ
平将門は、平安時代に関東で勢力を広げ、「新皇」を名乗った武将です。討たれた後、その首は京都へ運ばれました。ところが、さらされた首はいつまでも腐らず、目を開き、胴体を求めて声を上げたというのです。
やがて首は東を目指して飛び去り、落ちた場所の一つが、この大手町だと伝えられています。首だけになっても、まだ戦おうとする。将門塚の話には、最初から、死んでも終わらない強い執念が漂っています。
荒れた塚と疫病、そして大蔵省の相次ぐ不幸
鎌倉時代の末、塚が荒れ果てた頃に疫病が流行し、人々は将門の祟りを恐れたといいます。僧侶が塚を整え、将門を供養すると、疫病も鎮まったという伝承が残っています。
時代が下って関東大震災の後。大蔵省が塚を崩し、その場所を仮庁舎に使うと、大臣や工事に関わった人々が相次いで亡くなり、職員の間にも病気や足のけがが続いたと語られます。死者は十数人ともいわれ、ついには鎮魂の祭りを行うことになったそうです。
それだけでは終わりません。将門の死から千年にあたる1940年、官庁街で落雷による火災が起き、大蔵省も焼失。一度は慰めたはずの霊が、また荒れたのではないか。年の巡りまで重なり、祟りの話をいっそう忘れにくくしています。
GHQの駐車場工事を止めたブルドーザー
戦後、占領軍の駐車場を造るために、この一帯を整地しようとしたときにも事故が起きたといいます。塚の周辺でブルドーザーが転倒し、運転手が亡くなった。作業員にもけが人が出て、工事は進まなくなったという話です。
震災を越え、戦争を越え、持ち主や使い道が変わろうとしても、そこだけは思いどおりにならない。大蔵省の話と並び、将門塚を「動かしてはいけない場所」として印象づけてきた怪談です。
塚に背を向けて、仕事をしてはいけない
周囲のビルには、将門塚に背や尻を向けて座らないよう、机の配置に気を配ったという話があります。向きを変えてから体調不良者が出た、という噂もその一つです。
怖い話を聞いたあとで、自分の席から塚がどちらにあるかを確かめてしまう。墓前を通るときだけでなく、仕事中の姿勢にまで目が向くところに、大手町らしい不気味さがあります。
この机の向きの話は、松崎憲三氏が1995年に発表した研究にも載っています。最近のSNSだけで生まれた話ではなく、会社と塚の関係をたどると、以前から語られていた様子が見えてきます。
参拝後、カメラやSDカードに異変が起きた
個人の訪問記にも、気になる出来事が残っています。2013年のブログ「日々史跡めぐり」では、参拝写真をパソコンに取り込む頃、SDカードや電池、カメラに不調が起き、買い替えに至ったという体験が綴られています。
別の書き手・小路さんも、2014年の訪問記で、写真撮影中に転倒し、カメラの主要部が曲がって使えなくなったと記しています。こちらは機械がひとりでに壊れた話ではありませんが、首塚での撮影とカメラの故障が重なる、忘れにくい一件です。
写真を撮ること自体は、いつもの旅先でもすること。その後に道具が使えなくなると、何を写したのだろう、と撮影した場所の名前が気になってしまいます。
小路さんの記録は、ご本人が移した「京都妖怪探訪(390):平将門の首塚(その1)」で読めます。
石碑を蹴った芸人から、仕事が消えたという話
爆笑問題の太田光さんが、若い頃のテレビロケで石碑を蹴り、その後、約3年間仕事がなくなった。それも将門の祟りではないか、という話が広まっています。
吉田悠軌さんも2021年の「ムーPLUS」の記事で、この有名な噂に触れています。墓所にふざけて手を出すと、暮らしの根元を奪われる。将門塚への不敬を戒める話として、記憶に残りやすい形です。
誰もいないのに、地図アプリでは「混んでいます」
2023年には、いかにも今の時代らしい投稿が話題になりました。将門塚に自分しかいないのに、Googleマップでは「混んでいます」と表示されていたというのです。
投稿したのは、Xの「さく」さん。人の見当たらない場所と、画面の混雑表示。その食い違いが、首塚という場所のせいで、妙に怖く見えます。
私しかいないのに。こわい。 pic.twitter.com/TYCRzk8N2f
— さく (@fuji_saaan) 2023年5月20日
📷実際に行ってみた|2015年の夜の将門塚
写真は2015年6月21日の夜のものです。将門塚は2021年に大きな整備が行われているため、ここに写っているのは、その前の境内になります。
ビル街にある石段と、「都旧跡 将門塚」の石柱


入口には生垣があり、石段の両脇に灯籠が立っています。幟に見えるのは「神田明神」の文字。背後にはビルがあるのに、塚の周りは大きな木々に覆われ、夜の灯りで葉が黄色く浮かんでいます。
生垣の奥の石柱には、「都旧跡 将門塚」。首塚の名を知って来た人を迎えるのは、派手な看板ではなく、この石に刻まれた文字です。
将門の由来と、酒井家の屋敷を伝える案内板


石段を正面から見ると、左右の生垣の間に入口が開いています。左には屋根の付いた木の掲示板。その隣には、白地の説明板が立っています。
一つは「将門塚の由来」、もう一つは「酒井家上屋敷跡」です。白い板には「伊達騒動」や「樅の木は残った」の文字も見えます。平安の武将を供養する場所に、江戸時代の別の事件の名前が並んでいるのです。
石畳の奥にある供養の場と、故蹟保存碑


中は石畳になっていて、奥に花の供えられた板石塔婆、その右に黒い説明板があります。左側の大きな石碑には、「故蹟保存碑」と刻まれています。
木々や塀に囲まれた小さな一角ですが、石碑は一つではありません。将門を供養する石と、この場所を残すための石が、別々に置かれています。
白い花と、足元に並ぶカエル


正面の板石塔婆には、白、黄、紫の花。手前に奉納箱と香炉があり、右側には小さな石像や、緑や茶色のカエルの置物が並んでいます。
恐ろしい祟りの話をいくつも持つ場所に、小さなカエルが何匹もいる。この取り合わせは、写真を見返しても気になるところです。カエルには、無事に「帰る」、失せ物が「返る」といった願いが託されてきました。

黒い説明板の見出しも「将門塚」。その脇に板石塔婆と置物が見えています。夜の写真では細かい説明文までは読み取りにくいものの、花や石碑がきちんと整えられた、供養の場であることは伝わってきます。
📜将門塚の歴史・事件・過去の記録
将門の死と、神田明神に残る供養の由緒
平将門が討たれたのは940年(天慶3年)。京都から首が飛んで来たという話は伝説であり、大手町に首が埋められたことを確定する発掘資料があるわけではありません。
神田明神の由緒では、荒れた塚と疫病の伝承に続き、1307年に真教上人が将門を供養し、1309年に将門が神田明神に合祀されたと伝えています。神田明神が現在地へ移った後も、この旧地には将門ゆかりの信仰が残りました。
写真の中央にある板石塔婆は、神田明神の案内によれば1970年に再建されたものです。徳治2年(1307年)の板碑の拓本をもとに、法号や念仏の文字を刻んでいます。目の前の石そのものが、平安時代や鎌倉時代から立ち続けているわけではありません。
1905年の講演と新聞報道――「将門塚」はどう知られるようになったのか
今の名前は、いつから広く使われるようになったのでしょうか。谷津亮太郎氏の2024年の論文「『将門塚』の成立」は、1905年9月23日、大蔵次官・阪谷芳郎が東京経済学協会で行った講演を詳しく検討しています。
庭の築山と池が、将門の墓と結び付けられる
当時、大蔵省の庭には築山と池がありました。阪谷は、神田明神や日輪寺の旧地、首を洗ったという池の伝承、祭礼の神輿が立ち寄る習わしなどをつなぎ、この塚が将門に関わる場所だと論じます。歴史家の三上参次や、将門の事跡を調べた織田完之の名も登場します。
法学博士でもあった阪谷は、材料を積み重ねて過去を判断する「証拠裁判」の考え方を持ち込みました。首を掘り当てた発見談とは違い、庭に残るものと、伝承や古い記述とを照らし合わせた議論だったのです。
根拠とされた古記録には、場所の食い違いがある
谷津氏は、阪谷が挙げた『寛永記』『寛明日記』には、大蔵省のこの場所と将門の塚を結ぶ記述が見当たらないと指摘します。近い内容を持つ『寛永日記』に出てくるのは須田町。現在の将門塚から北東へ約1km離れており、大手町の塚だと断定するには隔たりがあります。
古い本に将門の塚が出てくることと、それが今の大手町の塚を指すことは、別の問題です。この食い違いは、由緒をたどるうえで見過ごせません。
新聞によって、講演が「将門塚」のニュースになる
論文が整理した1905年9月の新聞には、講演を受けた記事が続きます。
| 掲載日・新聞 | 報じられた主な内容 |
|---|---|
| 9月25日・毎日新聞 | 阪谷の講演と、三上参次による考証。 |
| 9月25日・萬朝報 | 将門を逆賊とみなす評価や、その名誉に関わる議論。 |
| 9月27日・中外商業新報/東京朝日新聞 | 大蔵省内の墓・塚を取り上げ、それぞれの読者へ伝える。 |
| 9月29日・読売新聞 | 講演を報じ、同紙の以前の記事にも言及。 |
谷津氏がたどったのは、古い信仰や祭礼のある場所が、官僚の講演と専門家の考証を経て、新聞で「将門塚」として広まっていく過程です。1905年に土の塚が新しく造られた、あるいは信仰がすべて創作された、という意味ではありません。
この記事での講演録・新聞の紹介は、谷津氏の原論文に基づきます。古記録の場所の問題も含め、昔から語られたことと、明治以降に確かだと受け止められるようになったことの間には、まだ調べる余地があります。
震災後の仮庁舎、死者の話、1928年の鎮魂祭
大蔵省がこの地へ移って来たのは1871年。1923年の関東大震災で庁舎が焼け、その後の仮庁舎建設で塚が取り壊されたとされています。
国税庁の歴史解説「大手町の首塚」は、1926年に大蔵大臣・早速整爾、1927年に工事部長・矢橋賢吉が亡くなったことを挙げ、塚の祟りの噂が広がった経緯を紹介しています。1940年の落雷火災も、同じ解説に登場します。
また、松崎憲三氏の1995年の論文は、1928年3月27日付「東京朝日新聞」夕刊2面の記事を引用しています。そこでは、大蔵省で亡くなった人やけが人の話と、将門の霊を慰める鎮魂祭が結び付けられています。国立国会図書館のレファレンス事例にも、この掲載日の確認が残っています。
祟りという受け止め方と、それを鎮める祭りが、当時の報道に現れていたことは確かです。ただし、「死者14人」などの総数を、そのまま個々の死因まで確認された事故記録とみなすことはできません。
戦後の事故を伝える回想には、保存を願った人の名がある
戦後の重機事故については、保存会のサイトに1972年の遠藤達蔵氏の回想が掲載されています。そこでは、ブルドーザーが転倒し、投げ出された運転手が病院へ運ばれた後に亡くなったと語られています。
続くのは、事故に驚いた人たちの行動です。遠藤氏の父・政蔵氏らは、半ば埋もれた板石塔婆や保存碑などを見つけ、英語のできる知人とともにGHQへ保存を願い出たといいます。
「祟りが米軍を退けた」という一言の裏には、石を見つけ、繰り返し交渉した人の記憶が残っていました。この回想は当事者側の大切な証言ですが、事故当日の公的な調書そのものとは区別して読む必要があります。
掲載されている回想は、将門塚保存会「保存会について」で確認できます。
酒井家の屋敷、向きを変えた碑、2021年の整備
江戸時代、この一帯は酒井雅楽頭家の上屋敷でした。1671年の伊達騒動に伴う刃傷事件の舞台でもあり、入口の「酒井家上屋敷跡」の説明板は、その歴史を伝えています。将門の死からは約730年後の、別の出来事です。
保存会が公開する2020年の資料には、江戸の町割、明治の測量図、戦前・戦後の航空写真、整備図面が並んでいます。庭園の池や築山のあった土地が官庁街となり、戦後には周りのビルが建っていく変化をたどれます。
整備の記録を見ると、1961年には正面を東向きに変え、1963年には西向きへ戻しています。さらに1965年から翌年にかけての工事では、北側からの入口が南側へ移されました。「動かせない」という噂の一方で、境内は何度も手を入れられてきたのです。
写真の左にあった故蹟保存碑も、神田明神の案内では1906年に初めて建立された碑で、現存するものは再建です。花を供えられた板石塔婆とともに、保存や再建を重ねた時間が、今の景観を作っています。
そして2021年4月26日、第六次整備工事が完了。橋やスロープ、校倉を思わせる囲いなどを備えた姿へ変わりました。2015年の夜の写真に見える生垣や石段は、整備前の記録です。竣功の日には神道の祭儀と日輪寺による法要が行われています。
整備前後の写真と工事の経緯は、神田明神「将門塚第六次改修工事完了」に掲載されています。
🔎将門塚の祟りの真相・独自考察
事故の記録と、「祟りで起きた」という説明の距離
大臣らが亡くなったこと、官庁街で火災があったこと、鎮魂の祭りが行われたこと。それらが語り継がれた事情は、歴史解説や研究からたどれます。しかし、出来事が前後して起きたことだけでは、将門の霊が原因だったとは決められません。
重機の話も、語り直されるうちに運転手の国籍や被害人数が違ってきます。保存会の回想にある「運転手」を、根拠なく「米兵」と言い換えると、別の話を作ってしまいます。
太田光さんの噂についても、吉田悠軌氏は、仕事が減った背景として所属事務所からの独立を挙げています。「不敬をした」「後に仕事が減った」という二つを並べると、途中の事情が抜け落ちたまま、一つの祟り話になりやすいのでしょう。
カメラの体験談にも、撮影中の転倒という具体的な原因が記されたものがあります。地図アプリの混雑表示については、Google自身が、利用者の匿名化された訪問データを集計する仕組みを説明しています。あの投稿だけから、画面が霊の人数を数えたと受け取る理由はありません。
それでも首塚で起きると、機械の不調も、画面の食い違いも、将門の名へつながってしまう。そこには、出来事を見る前から私たちが知っている、強い物語の働きがあるように思います。
机の向きとカエルに残る、暮らしの中の畏れ
松崎氏の論文は、会社の机の配置や日々の参拝、カエルに託す願いも扱っています。塚に背を向けない話は実際に語られてきたものですが、周辺の全企業に共通する現在の規則だとまではいえません。
カエルについては、海外から無事に帰ることや、失せ物が返ることなど、さまざまな「かえる」の願いが紹介されています。京都から首が帰ったという伝承にも通じる置物が、日々の仕事や家族の無事に結び付いているのです。
1905年の講演や新聞報道は、塚が広く知られるようになる節目でした。その後の震災や戦後の開発で起きた出来事が重なり、仕事場の禁忌や個人の体験談へも話が伸びていった。将門塚の怖さには、時代ごとに身近な心配が重ねられてきた面があるのではないでしょうか。
一方、図面に残る碑の向きの変更や、近年の改修を見ると、保存は「何も触らずに放っておく」ことではありませんでした。手を合わせる人と、手を入れて残す人の両方がいた。その積み重ねが、ビル街の中に供養の場を残してきたのでしょう。
😱平将門の首塚(将門塚)の恐怖度
雰囲気:★★★★☆
立地:★☆☆☆☆
心霊現象の有無:★★★☆☆
過去の事故事件の有無:★★★☆☆
総合評価:★★★★☆
駅に近いオフィス街ですが、夜の木々と石碑には雰囲気があります。死や火災、工事の怪談に加えて、机の向きや撮影機材にまで話が及ぶ、その伝承の厚みを含めた評価です。事故事件の星を、祟りが実証された件数と受け取ることはできません。
✍️まとめ
将門塚には、飛んで帰った首の伝説、大蔵省にまつわる災い、戦後の重機事故、オフィスの机の向きの話が重なっています。1905年の講演と新聞をたどると、その名が広まる過程にも、人の判断や時代の事情がありました。
2015年の夜の写真には、石碑の前の花と、足元のカエルが残っています。壊すと祟ると恐れられる場所で、誰かが無事に帰ることを願う。その二つが同じ小さな一角に収まっているのが、大手町の将門塚です。
都内の祟りの伝承をたどるなら、お岩稲荷と、上演前のお参りにまつわる話、道了堂跡の噂と過去の事件もどうぞ。




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